記憶に残る高知の海
海か山、どちらが好きかといわれると、迷わず海と答える。
水に関係した作品が多いのは、海岸や河川の美しい高知で育ったからだろうか。
見知らぬ土地で撮影場所を探して、海岸に続く道を見つけると、どんな細い道でも入っていきたくなる。
日本の海辺には、その土地の気候や風土に根ざした特徴があり、発見がある。
今回の作品は1983年の夏、土佐清水市で撮影し、86年の展覧会に使用した。
以来高知の海を見ていないので記憶があいまいだが、強烈な光の印象が残っている。
濃い海の色や逆光の太陽が、この土地ならではのコントラストを生み出している。
撮影には海の黒さを強調するために、濃い色のフィルターが2枚、昼間にしては長い15秒の露光が必要だった。
分かりづらいが、岩の上にいるのはイソヒヨドリだろうか。
美しいと思うものを、思い通りに写せるようになる迄には、長い時間がかかる。
絵が描けるようになるのと同じで、写真であっても、他の芸術とかわらない。
当時から比べると、カメラは自動化が進み、写真家が身に付けるべき技量を、カメラがこなしてくれるようだが
アーティストの立ち位置からすると何も変わってはいない。
最近のスマートフォンの写真の手軽さと解像度には驚かされる。
最新のデジタル技術は、移っているものが海なのか人物なのか、
ほとんどの被写体を識別して、それぞれに最良の表現を自動的に作り出している。
それは情報の伝達としては優れた威力を発揮するが、
客観的なフィルターで着色され、芸術における作家の意思を伝えてくれるとは限らない。
今回の作品を撮影した80年代、デジタル録音のレコードが出回り始めた(CDではない)。
当時は、優れた音質と透明感に驚いたが、その後の進化では、録音の手軽さや安易な編集への疑問も耳にするようになる。
今では楽器本来の音色や音楽性、進化とともに見落とされていたものが見直されている。
当時想像し、夢見ていた写真のデジタル化はほぼ現実になった。
しかしすべてをポジティブに受け止めるには疑問がある。
手軽にできることで、自分で作ることや探すことを見失ってはいないか。
新たな機材や機能に振り回されてはいないか。
客観的に見れば、自分の写真は30年来進化がないように思える。
ゆっくりではあるが、被写体のバリエーションを増やし、新しいものに挑戦しているつもりではあるのだが.....。
いまだに何度トライしても表現できないモチーフがある。
それを可能にするのは新しいカメラではなく、自分自身だ。