連載 No.34 2016年07月17日掲載

 

記憶に残る高知の海


海か山、どちらが好きかといわれると、迷わず海と答える。

水に関係した作品が多いのは、海岸や河川の美しい高知で育ったからだろうか。

見知らぬ土地で撮影場所を探して、海岸に続く道を見つけると、どんな細い道でも入っていきたくなる。

日本の海辺には、その土地の気候や風土に根ざした特徴があり、発見がある。



今回の作品は1983年の夏、土佐清水市で撮影し、86年の展覧会に使用した。

以来高知の海を見ていないので記憶があいまいだが、強烈な光の印象が残っている。

濃い海の色や逆光の太陽が、この土地ならではのコントラストを生み出している。

撮影には海の黒さを強調するために、濃い色のフィルターが2枚、昼間にしては長い15秒の露光が必要だった。

分かりづらいが、岩の上にいるのはイソヒヨドリだろうか。



美しいと思うものを、思い通りに写せるようになる迄には、長い時間がかかる。

絵が描けるようになるのと同じで、写真であっても、他の芸術とかわらない。

当時から比べると、カメラは自動化が進み、写真家が身に付けるべき技量を、カメラがこなしてくれるようだが

アーティストの立ち位置からすると何も変わってはいない。



最近のスマートフォンの写真の手軽さと解像度には驚かされる。

最新のデジタル技術は、移っているものが海なのか人物なのか、

ほとんどの被写体を識別して、それぞれに最良の表現を自動的に作り出している。

それは情報の伝達としては優れた威力を発揮するが、

客観的なフィルターで着色され、芸術における作家の意思を伝えてくれるとは限らない。



今回の作品を撮影した80年代、デジタル録音のレコードが出回り始めた(CDではない)。

当時は、優れた音質と透明感に驚いたが、その後の進化では、録音の手軽さや安易な編集への疑問も耳にするようになる。

今では楽器本来の音色や音楽性、進化とともに見落とされていたものが見直されている。



当時想像し、夢見ていた写真のデジタル化はほぼ現実になった。

しかしすべてをポジティブに受け止めるには疑問がある。

手軽にできることで、自分で作ることや探すことを見失ってはいないか。

新たな機材や機能に振り回されてはいないか。



客観的に見れば、自分の写真は30年来進化がないように思える。

ゆっくりではあるが、被写体のバリエーションを増やし、新しいものに挑戦しているつもりではあるのだが.....。

いまだに何度トライしても表現できないモチーフがある。

それを可能にするのは新しいカメラではなく、自分自身だ。